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さくらの文学
桜に彼岸を見た人たち
〜相米慎二「風花」〜
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相米慎二『風花』
作文中
これは映画です。特に桜を描いているわけでも重要な要素でもありません。
酔いつぶれて桜の下で
浅野忠信(若い官僚)と小泉今日子(風俗嬢)が朝めざめるシーンからはじまるだけです。
その桜も東京郊外中央線の横にあるとある小さな公園のものですから
みばえがするわけではありません。
問題はこの一作を終えて他界した相米がなぜこの桜のシーンから始めたか、
亡くなった後になってふり返ると
なにか恣意的なものを感じてしかたがないのです。
相米は決して映画作法の上手い監督とは思いません、
が、風貌からの印象か荒っぽいとも思える映画手法にひそむ繊細な思いが
どの作品からもにじみ出ているのを感じるのです。
そしてどの作も切れ味のよい、
余韻を残すエンディングが突然のように待っているのです。
この作、現代の男女の「いきずりのみちゆき」
・・情念はそこにはありません、思いも交わることはありません、
しかし何かが時を共有させる必然・・
を描いたものと感じています。
そして死を求めてひとり雪の森をさまよう女のシーンに、
やはりこの映画の向こうに相米の「彼岸」を感じるのです。
それを思わなければ、
この映画は事件が起きるわけでも恋愛でもありませんので
何なのかわからないと思うのです。
みずからの死の予感があったのかなかったのか、
全編に相米の「彼岸」を感じる枯れて透明な作品でした。
そして何よりこの「風花」というタイトル。
「風花」は晴れているのに山を越えてきた迷い雪のことですが、
しかしもちろん私は「さくら」を見ていました。
相米作品では、「魚影の群れ」(夏目雅子・緒方拳・十朱幸代・佐藤浩一)の
物語のクライマックスのさなかというのに
観客を突き放すようにズームアウトしていくエンディング、
「お引越」(田畑智子・中井貴一)の少女の異空間への彷徨のシーン、
などの不思議な高揚感が好きです。
この少女の異空間への彷徨のシーンが異様に長いのは
相米の子供のころへの思いが投影されているらしい。
映像作法、常套より時に思いのたけが優先されるのが相米作品の醍醐味。
070512
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